家康に利用された吉川広家の「打算」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第23回
■家格上昇のための広家の打算的行動
広家は関ヶ原の戦いにおいて、豊臣家の人質時代から親しく、毛利家の取次であった黒田孝高(くろだよしたか)・長政父子を通じて、徳川家康と裏交渉を開始しています。一方で、西軍有利の状況になると家康との交渉を途中で放置し、積極的に軍事行動に励んでいます。
次第に西軍不利が見え始めると講和交渉を進展させるなど、広家は非常に流動的に、悪く言えば一貫性なく「打算」的に行動しています。これは毛利家の発展存続のために行動しつつも、吉川家の影響力が毛利家中で増大する事を狙って行動しているようにも見えます。
そして関ヶ原の戦いで、首謀者の一人として安国寺恵瓊が処刑された事で、広家は主導権を握る事に成功し、ようやく家格上昇の絶好の機会が訪れます。
しかし、家康によって本領安堵を反故にされます。毛利家は120万石から29万石への大幅な減封となり、広家は家中から強い反発を受ける事になります。その影響で広家は毛利家の中枢からも外されてしまいます。
ライバル的存在の秀元は支藩の藩主として将軍御目見(おめみえ)の資格も認められ、加えて毛利家を主導する立場にもなっています。一方で、吉川家は幕府から大名としての扱いを受けつつも、毛利本家からは家臣として扱われるなど微妙な地位に置かれます。
広家は待遇への不満や家中での批判の強さから、黒田家への出奔を計画し、長政と具体的な交渉まで行っています。最終的には毛利家に残る選択をしますが、その後も毛利家家中での地位を巡って秀元と対立を続けます。この対立は広家の嫡子広正(ひろまさ)の時代まで及びます。
そのため輝元は家中統制に苦しみ、逆に家康や徳川幕府の権力に依存する事が増えていきます。結果的に広家の「打算」的な行動が家康に利用された形となり、毛利家の家中対立を生み、その勢威を減退させていきました。
■個人的な「打算」は組織に利益を生まない
結果的に、広家の「打算」的な行動は毛利家の発展には繋がりませんでした。加えて吉川家の家格上昇も叶いませんでした。
自身に与えられる予定だった長門周防を輝元に譲って、毛利家改易を防いだという有名な逸話も、手紙が吉川家にしか残っていないため、独立大名の資格を得るための自作自演とも言われています。独立志向の強かった秀元にも似通った逸話が残されています。
現代でも自分の出世や利益を優先し「打算」的に行動するあまり、組織や周囲に多大な被害を及ぼしているケースは多々あります。もし広家が私欲や私怨を捨て、一貫した姿勢で関ヶ原の戦いに臨んでいれば、その後の結果は違ったものになっていたかもしれません。
ただ、関ヶ原の戦い本戦への不参加により、徳川幕府の元で毛利家が国持大名として存続できる素地を作った事は間違いありません。
ちなみに幕府が大政奉還を行った後、新政府によって岩国は独立した藩として正式に認められ、260年の時を経て広家の念願が叶うことになります。さらに、幕末において岩国藩が佐幕的な立場を取り、長州藩と幕府の仲介役を担っていた点は、戦国時代を彷彿とさせて興味深いです。
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